昭和47年4月14日 朝の御理解
                               中村良一
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」



大変、えー、難しい御理解でございますね。まあ、信心をさせて頂くのに、「明日はお参りしましょうか」と、「ほんなら、お参りいたしましょう」と。と言うて、まあ、連れのうて参ります。「私はお参りが出来なくなった」と一人が言うと、「ほんなら私も御無礼しよう」と。言うような意味の事でもあると思うですね。信心に連れはいらぬ。もう、お参りしようと思うたら、一人でもお参りをするということ。信心はそんなものだと。死ぬるにも連れがいろうがと。えー、どしのいきというのがありますよね。非常にその、どしのいきをする。確かに、そういう、いき方であると、やはり、寂しくなってくる。寂しくなってくると、それこそ、死ぬるに、やはり、えー、連れがいるような、ね。無理心中なんかというのは、それなんです。一人で死ぬるのは寂しい。そこで、日に日に生きるが信心だと。もう、ここに至るともう、いよいよ、難しいですね。信心はただ、日に日に生きる。日に日に生きていくという事だけが信心だというわけではないのですよね。まあ、これは私の、解釈で言うなら、とにかく、信心とは、だから、これは反対に頂くと分かるんです。日に日に生きるが信心という事は、ね。日に日に更だという意味だと思うのです。日に日に新た、ね。もう、新たに生まれたという。日々魂の誕生である。ね。そこで、これを反対に言うと、日に日に死ぬるが信心なりという事にもなるのです。信心とは、もう、過去の私は死んだもの。
先日、ある方が頂かれた御理解のなかに、ね。私には過去はないと。明日があるだけだと。言うわけである。生き生きとして躍動しておる。ね。更な心というものは、新しく伸びたものなのです。伸びることなんです。ですからもう、昨日の、私ではないのである。もう、昨日までの私はもう、なくなっている。葬っていくということなんです。過去を葬っていくと。ただ、見つめるところは、明日。いうなら、希望だけだとこういうのである。ここに、それをそういう風に頂きますと、日に日に生きるが信心なりということが分かるですね。日に日に生きるということ。そんなことだと、私は思うのです。
ま、二十六節の、その軸から頂きますと、そういうような事になるのです。えー、「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。」本当いうたらね、信心。これは、だから、ここでは、お参りをするのに、ね。明日お参りしようかと。ほんなら一緒にお参りしましょと。そういう意味の連れではなくてです。信心は、もう、結局、銘々なのですから、実を言うたら、連れがあろうはずがないです。
昨日、十三日会で、大変熱心に、信心の共励がございましたが、最後に、えー、結局、合楽に欠けておるもの、それは。いわゆる、梅の花の信心だという話が出ました。ところがその、あー、桜井先生の奥さんでしたかね。「大体、梅の花の信心とは、どういう信心ですか。」という質問があったんです。実は私も分かりませんと。今までこれを、梅の花の信心だと思おうておった。ところが、今度の御本部参拝させていただいて、皆の信心、いわゆる、信心が欠けておると頂いて、そんなら、今までの信心は、信心辛抱、いわゆる、梅の花ではなかったんだと。いや、まだ、であったにしても、本なものではなかったんだと。だから、本当の梅の花の信心を、実は模索中なんだ、現在は。私自身が。どういうことか分からんのだ。けども、合楽にその、梅の花の信心が備わったときにです。ね。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」というほどしの、私の信心理想であるところの、そこに理想郷というものが開けてくるのだと。何とはなしに、桜の花的な、あー、信心内容というものは、合楽はもう、こら自分の、おー、持ち前である。また、同時に、柳の、まあ、素直さというか、そういうようなものも、何とはなしに、いー、まあ、合楽のご信心なさる方たちは、まあ、そういう意味で非常に素直だと、私は思うです。だから、素直と、(おほっ)ね。桜の花的なものは、まあ、手持ちなのですから、どうでも、精進努力させていただいて、欠けておる、梅の花の信心を頂かなければならない。ですから、これはもう、お互いが、梅の花の信心をというなら、私は、過去を思う。でなからなきゃ出来んのです。こうだという事じゃないのです。ね。
昨日、終わりましてから、んー、まあ、色んな方の。私は信心辛抱かく思うという、その発表なさいました。それぞれに、本当に素晴らしいと。例えば、あの、久富繁雄さんの発表を、とにかく、ま、結局、私に欠けておるものというものを、発見すれば良い訳なのだ、大体は。ただ、それを、ほんなら極めていくことに、精進することだと。まあ、私に欠けておるものは、もう、いよいよの時に、さあー、というものが足りないと。ね。いよいよの時に、さあーと、さあーっというその、勢いが欠げておる。ここのところを、私は、精進していくことが、私にとっては、梅の花の信心だと、もう、本当にそうだと、私は思うです。それは、繁雄さんの信心辛抱なんです。
むつ屋の石井さんが発表してありました。私は、梅の花の信心という字題があるのに、すぐ、梅というじを書いてみましたとこういう。木へんに、毎日の毎が書いてある。心が毎日神様に、本当に向かっておるかどうか、充実した向かい方が出来てない自分を感じ取ったと。だから、いうなら、毎日の朝参りなら朝参りの上にでも、ね。お商売の上にでも、それは、後から、松栄会がございました。私は、久しぶりで、その松栄会にかたらしていただきました時に、その事を話しております。ね。確かにその、自分に欠けておるもの、それを、先ず知ることだと、私は思う。いや、ここを改まらねばならんと。自分の改まらねばならんところを知っておるならば、それを本気で、改まることに精進することだと。だから、一人一人に違うんだと。ある人はもう、この人ばっかりは本当、もうこの人がおかげいただかなかはずはなかというごと素晴らしいように、先日から、身内の方が参ってきて、うちに主人な、こうこうですと言うて、話をききたて、笑い地の話なんですよ。昨日。ね。ですから、いうならば、普通で言う言葉で言うならば、うち前が悪くて、外では良いというわけなんです。ね。御広前だけは立派だけれども、家での生活が乱れておったり、それで反対であって、おかげの頂けるはずはないですはね。教えを頂いて、それを持って帰って、それぞれの生活の現場に、それが現されてこそ信心なのですから。何事にも信心になれよとは、そういうことなんだ。だから、そういう人なんかはですね。そこんところを、本当に、私は精進して行くことだと。また、それと反対の人もありますよ。ね、教会では、そう誰からでも、あんまり認められないような感じだけれども、家ではとっても、こまめでようやるという人があるんです。ね。いや、本当ですよ。そらもう、お母さんの汚れもんでんなんでん洗濯してやる。もうこれにはたまがった、この人ばっかりは、こげん所のあるとは思わじゃった。合楽じゃもう、なーにせん。すると損するごつしとる。けれども、家では、信心実行やってるわけなんです。ね、言うならば。だから、そら、分からんけれども、こら結局は、銘々のものなのだ。自分でなからにゃ分からんのだ。ある意味で、信心辛抱。ね。だから、出来んところを出来んなりに、放任しておくことがいけない。自分で、ここを改めにばと、ね。久富さんじゃないけれども、自分に、さあーっと言うものが欠げておるならば、は、ここんところが、さあーで一丁、踏ん張らにゃんとこだなーっと、思わせて頂いて、そこを踏ん張って、信心のほうへ向こうてくるというところにです。やはり、それは辛いことでありましょう。自分に欠げておることは。けれども、それを、昨日の御理解の中にもあったようにですね。何とか洗剤の宣伝ではないですけれども、ね。洗濯は好きじゃないけれど、好きと言うた手前に、ね。あなたのためなら洗濯しようと、何か、あんな宣伝の文句がありますよね。洗濯、好きじゃないけれど、ね。あなたの、あなたのために、せっせと洗濯をするわというわけなんです。せっせと洗濯していくうちにです。洗濯が上手にもなりゃ、面白うもなってきた。楽しゅうなってきた。というようにです。ね。自分に欠げておるところを、そのような、好きじゃないけれど、自分には、これは、難しいけれど、それを辛抱、それこそ、泣き泣きでも辛抱しいしいに続けていくうちに、その事が有難い事になってくるという、そういう事なんだ。ですから、銘々に、その信心辛抱が必要なんです。という風にお話をしてまいりますと分かるでしょう。信心は、に、連れはいらぬ。銘々、信心をせよという意味が、こう分かってまいりますですね。私が、繁雄さんの真似をするこっじゃないと。私が、信二さんの、同じものであらねばならんという事ではない。いや、信二さんのことは、私には出けておるけれども、繁雄さんのことは出来ていないといったような事に、色々あるんですは。ね。
私は、今日は、信心に連れはいらぬという事は、そのような事だと思うです。いや、連れはいらんどころではない。連れがあったら出来んのです。ね。一人ひそかに信心せよ。と言うて、それこそ、木枯し紋次郎じゃないけれどね。(えっへ)一人、さすろうて歩くというような、厳しいとか、寂しいとかというのでは、さらさらないということ。一人信心せよと。もう、いよいよ、自分の心は賑やかに、豊かに成って行くことなんだ。一人信心するという事は。そこでです。一人信心をして行くということにです。一つの、んー、まあ、自分が一人信心をして行くということに、間違ってはいないであろうかと。または、えー、楽に、一人信心させて頂く一つの、目当てといったようなものがです。要ることになります。一人、一人信心せよと。そらもう、一番最後のろころに締めくくってある。日に日に生きるが信心なりなのですから、ね。過去の自分というものを、葬っていくほどしの信心と。そこに生まれてくる更なもの。いわゆる、日に日に更な信心が出来てくる。その更な心と、で、どう取り組むかということなんです。日常生活の上にです。ね。その更な心で如何に、どのように取り組むかということは、問題なんです。
私は、今朝、んー、えー、自然に溶け込んでいくという事は、自然を生かすことだというような意味のことを頂きました。まあ、ちょっと言葉は違ってましたけれど、そういう意味でした。ね。自然に溶け込んでいくという事は、自然を生かすことだと。はあー、素晴らしい事だなと思うた。ね。まあ、例えて、例を分かりやすく申しましょうかね。えー、自然に溶け込んでいくという。まあ、例えて言うならば、あー、ね。えー、汚いものでも、ね。例えば、まあ、大小便でもいいです。ね。大地に持っていくでしょう。そすと、大地はそれを、だまーって受けて、それを浄土と化して行くわけです。素晴らしい良い泥になってしまうわけです。ね。これは、ほんなら、汚物が大地に溶け込んだわけなんです。溶け込んだところが、その大地自体を、泥自体を生かすことになったんです。だから、泥そのものが、一つ、神様とこう、頂いたら、すぐ分かるでしょうが。ね。神様の中に突入する。没入する。その事がです。ね。神様を、ま、神様がお喜びを頂けるような信心を頂きたいという事はね。ね、神様を生かすということなんです。ね。いうならば、天地を生かすという事なんです。ね。天地を生かすという事は、そのまま、神様がお喜び下さる事なんです。それにはね、その天地の働きの中に、突入しなければ、没入しなければ、溶け込んでいかなければ、ね。それを、ほんならまた、分かりやすく言うと、ほんなら、どういう事になるかというとね。私が神様に任せきった時です。これはね、私が、神様任せになるという事は、ね。私がおかげを頂くためではなくて、本当は、神様が助かって下さる事のためなんだ。ね。神も助かり、氏子も立ち行くという、その、神が助かって下さる。私共が、神様任せになるという事は、ね。もう、最高に神様が喜んで下さることなんです。任せきると、神様に任せきるということは、神様のお心の中に溶け込んでいくということなんですから。ね。または、それぞれの環境を持っております。ね。特に人間関係。家庭の中にでもそうです。例えば、嫁と姑というような場合であってもそうです。ね。お母さんが、あー、あそこは良かばってん、あそこは悪かと。良かとこだけは真似するばってん、悪かとこは真似せんと。そら、真似せん方が良かけれどもです。まあ、極端に言うとそうですけれどもです。やはり、ね。お母さんと仲ようするためには、そのお母さんの中に、嫁が突入しなければいけんのです。溶け込んでいかなければ。ね。溶け込んでいって、そこから、自分の働きというものが出来てくるときにです。お母さんも助かり、嫁も助かりという事になるのです。ね。まあ、溶け込むという事は、ね。自然に溶け込んでいくという事は、そのまま自然を生かすこと。ね。神様のお働きの中にです。こちらが突入すると。いわゆる、神様のお働きを、そのまま、合掌して受けるということ。いわゆる、御事柄として受けるということ。これなどは、神様と一緒になることです。ね。ですから、おかげ頂くはずだという事になります。神は、わが本体の親、ね。神は、わが本体の親なのですから、その親の心に溶け込んでいくということ。ね。そこに、神様を助けること、神様を生かすことになる。ね。氏子が神様任せになる。氏子が、ね。自分本位のことばっかり言うのじゃなくて、いわゆる、神様本位に日常生活をさしてもらうということ。ね。それは、どういう事の答えになってくるかというと、氏子が神様本位なら、神様がまた、氏子本位になって下さるという働きになってくる。氏子が神様任せなら、神様のほうが氏子任せに働いてなって下さるという。それは、皆さんも体験しておられることでしょうね。こうこう、間断的に、そういう体験を持っておられる。まあ、それの一番の、私は見本は、私だと思うです。私が、神様を中心にしての生活をさしてもらう。神様任せの生活をさしてもらう。神様本位の、本位で、もう自分本位という、自分の我を出さない。神様は右と仰ら、「はい」という、右のいき方をさせて頂きよったら、ね。神様は、私が思う以上のおかげを、私の上に下さる。私のために、神様が、私任せになって下さっておる姿が、現在、合楽で現れておるところのおかげだと私は思うとです。ね。今日はこの、二十六節から、たとえば、そういうことになってきたわけなんですよね。
信心に連れはいらんという事は、連れのあろう、あって良かろうはずがないと。一人ひとり、銘々に。同じ梅の花の信心と言うて、一様じゃないということ。まあ、昨日、その梅の花の信心の例、あとから発表できなかった人たちが、まあだ、発表したかった方たちが沢山あるんですよ。で、後残った方たちは、みんな、「親先生、私は、梅の花の信心、こう思いました」ち。まあ、それぞれに、素晴らしいところを、やっぱ、頂いてあるです。田中さんなんかは、「先生、私はあの話を聞かせて頂きながら、発表しようごつして、こうこ手ばあぐるばってん、だーれん、言いなさらんもんじゃから発表が出来じゃった」ち言うごたる風で、まあ、ここで発表しなはったわけなんですけれど。田中さん、素晴らしい。また、次の機会に、その事をどうでんこうでん発表しなさいと言うて、ま、言うたんですけれど。本人から、発表されると、まだ良いでしょうけれど、私が頂いたところはです。何時でしたか、親先生の御理解のなかに、梅という、梅の肥料というのはもう、新しい大便が一番ち言う。もう、だから、梅の花を綺麗に咲かせたいならば、もう、大便を根肥やしにすることだそうですね。それも木に、周囲を掘ってから、大便が一番て。もう、何の肥料にも、また、梅を栽培される方なんかはもう、絶対そうなんです、ね。鉢の下には、ちゃんと大便が入れてある。そして、盆栽なら盆栽に、はーっと、こうやって、こうしとるばってん、中は、下は大便です。(はっはは)ね。だから、皆さんは信心が進んでおられるからです、ね。葉のことやら、花のことやら、実の事を教えられるけれども、私は、信心がまあだ程度が低いから、その根のところから行こうと。梅の、梅ノ木を育てるところから行こうと。そのためにはです。どういう汚いものであっても、どういう事柄であってもです。これが、梅の木が育つことだ、良い花が咲くためだ、良い実りが出来るためだと思うてね。あの、これ、今日を境に、私の梅の花の信心というのは、どんな汚いこと、どんな嫌なことを持ってこられても、これを一つ、我慢して受けていくということに、心を決めましたと言うておられます。
佐田さんなんかは、また違う。ご主人が梅の朴ち言う。私は梅の花だ。もう、そこに花が咲いたら、絶対、鶯が着て止まるに違いがないから、ね。勿論、男の花じゃいかん。女子の花じゃなからにゃ、実が実らんもん。それで、花は私だとこう言われるわけです。ね。そん為には、ほんなら、どういう信心をさして頂いたら良いかという様な事をね。色々ここで、お話になっとられましたがです。ま、それぞれに、やはり違うわけです。梅の花の信心。ね。なるほど、信心に連れはいらんじゃない。その人と同じことである必要もないし、また、本当は、銘々でなからなければ信心はでけんという。一人信心でなからなければ、信心の味わいというものを、味おうていく事は出来ないと言うこと。ね。しかも、それは、日に日に生きるが信心であるといういき方。ね。更な心。それには、過去の自分というものを、葬っていく。ね。葬っていくという事は、無くなって行くち言うこと。だから、次に、少しではあっても、更なものが誕生するわけです。それが、今日の私だと言うことにならにゃいけない。ね。ですから、生き生きとして、明日に希望が持てれることになるのです。ね。なら、そういう信心をです。話せばそれだけのことだけれども、それを、ほんなら、地をもって、どういう方法をもって、そういう信心を身に着けていくかという事はです。ね。いよいよ、自然を、いわゆる、中に溶け込んでいく精進努力をしなければいけないという事は、自然に起きてくる、色んな事柄の中に溶け込んでいくのである。人間関係であるならば、相手の中に溶け込んでいくのである。ね。はあ、もう、あん奴は、憎い奴だと思うておった人の中に、ね。あの人の立場になれば、ああもあろう、ああもしたかろう、と、溶け込んでいくのである。そこから、あちらも立ち行きゃ、こちらも助かって行く道が、必ず開けてくるのである。もう、あやつとはものでん言わん、ち言うような事では、あってはならないのである。ね。そのなかに溶け込んでいくごとなんだ。ね。こういう風に、言うならば、今日のこの、信心に連れはいらぬという、信心のさせて頂くための、具体的なね。言うならば、あー、表現ですよね。自然を、成り行きを大事にしなければならんという事は、その成り行きの中に溶け込んでいくということなんだ。そこに、自然を生かすことになる。そこに、神様を生かすことになる。そこに、神様を助けることになる。神様のお喜びを頂く事になる。そこで、それとはまた、その反対のことが私共の上にです。神様が私共を喜ばせてくださる。私共の顔を立てて下さる。ね。そこに、御道の信心の、いわゆる、あいよかけよの、言う、ま、おかげの現れ方というのがね。そういう、ただ、自分の、おー、自分本位に、ただ、自分の願いだけが成就すら、それで良いといったような事であってはならないという事が分かってまいります。神様が助かってくださりゃ、私共が助かる。ね。私共が、だから、いわゆる、神様本位になれば、神様がまた、氏子本位になって下さるんだという、その体験。その体験を頂かせて頂くために、いわゆる、私共が自然に溶け込んでいくというところのいき方を身に着けていかなければならない。自然に溶け込んでいくということになるとですね。さっき、家前が良いとか、家前が悪いとかというたら、もう、家前も、外前も無い。ようならにゃおられんのです。溶け込んでいくのですから。お前がってん何てん言うことは要らんのです。お前の中に溶け込んでいくのですから。ね。そういう、信心の進め方を、日々繰り返させて頂くところにです。なるほど、信心に連れは要らん。一人信心せよという。今日は、ここんところは、こういう表現ではじめて頂きますよね。今日は、二十六節は、そういうような意味合いで頂いた。連れは要らんのじゃない。もう、連れにはできんのだと、実際は。その人のものなんだと。そこから、問題はです。それこそ、飄然として、溶けていくおかげになってくる。何時、血になったのか、肉になったのか分からんように、信心の、いうなら、大切は改善される。ね。そこから、何時、着いたか分からないように、信心の力が頂けてくると思うのです。どうぞ。